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2015年11月15日日曜日

translation / TAKE YOUR TIME: A CONVERSATION 1/9



去年の夏ごろに一度翻訳しようとして、途中だったのをもう一度しようと思います。


カタコト調だし、意味をちゃんと訳せているか謎なところもあるし読みにくいけど
なにかアドバイスとか、もう訳されているよ!とかあったら教えてください ('.')

学問としての美術も興味がでてきています。
美術史も面白いけど、最近の論文とかどの分野と関わりをもっているか知って、いろいろな角度からみれるようになりたい鯛
哲学とかね



アーティストのOlafur EliassonRobert Irwin2人の対話です。
2007年にあったOlafur Eliassonの個展の図録に収録されていたものです。




TAKE YOUR TIME: A CONVERSATION
(2007)



Olafur Eliasson and Robert Irwin





Olafur Eliasson: 本当にあなたとお話しできるのを楽しみにいていました。それは私たちは共通の"一時性であること" への興味を経験(実例)をもとに話し合えると思っていたからです。 一時性とは、意味と含んでいるものが成長を続ける私のアート作品が内包するいくつかの要素のひとつです。そして私があなたの作品で大事だと思っていることは、関係性をもっと価値のあるものとみなすことで一時性を公平にしようと試みている方法です。 私は時間について考えることが物質論と物質が重要でないというアイデアの意識に応用できると信じています。 アート作品は閉鎖的でも静的なものでもないし、おそらく観賞者に明らかにされる事実を具体化するものでもない。 むしろアート作品は時間に好意を持っている、時間の中に埋め込まれている、時間のものです。 これが、私が自分の作品を 経験的仕組み(experimental setups)と呼ぶ理由です。 私の作品は来た人が関われる仕組みを持っています。


             私たちが作品に持つ不安定で予測できない構造は 私たちが今日知っている産業経験でものよりももっと関係性のある価値です。 一時性に焦点をあてることはこれらの産業を脅かすものだと私は考えます。 あなたや私の作品は意識的か、または意識的ではなく時間に関係ない感覚を作っている美術館の産業経験によって広められています。そして、彼らは私たちと同じ考えを持っています。





Robert Irwin: でももし彼らがするように、私たちがさせてしまったら、それは大きな過ちだと思う。





OE: そのとおり。それこそ、私が展覧会を"Take your time(あなたの時間を過ごしなさい)"と呼ぶことにした理由です。 "Take one's time(それぞれの時間をすごすこと)"の意味は、行動を空間と一時的な状況の中で従事させることなんだ。美術館のなかにいるか、外の世界にいるか。それは私たちを取り囲むものが変化する可能性への興味を要求します。 私たちの行動は一定の速度を持っていて、環境に寄るところが大きいと言う事実への自覚を高めるとも言えるかもしれません。 問題はこの一時的に参加すること(temporal engagement)が美術館や社会によってサポートされるかということです。 しばしばこの答えはノーです。 だからアーティストとしての責任としても美術館のかたち、フォーム、仕組みに関して挑戦していきたいのだと思います。
これは美術館がコミュニケーションが社会的価値だと主張するようになってから考えていることです。


              それは、私たちの環境の変化する可能性への注意を要求する。 私たちの行動は一定の速度を持っていて、環境に寄ることが大きいという事実への自覚力を高めるとも言えると思う。 疑問なのは、社会や同様に美術館によっても一時的に参加すること(temporal engagement)がサポートされているのかということだ。 時々答えはノーです。だから、美術館がコミュニケーションが社会的価値だって主張して以来、アーティストとしての責任として美術館のかたち、フォーム、仕組みに関して挑戦していくことだと考えています。




RI: 美術館は古い、物質を取り扱うことで基本的に身を立てている古いモデルです。 あなたと私は物質をつくる人ではないし、私たちは実験的なプロセスを取り扱っています。 美術館の構造は特定の価値を表現している特定の作り手に適合されていて、私たちが提案していることとは違う価値観を持っているでしょう。 美術館は私たちのような部類にも反応するべきでしょう。 たった今は、どの美術館にも現象を扱うアートへの指示がない。




OE: 私が現象に初めに興味を持ったのは芸術大学の学生のときでした。 現象が物質に対する理解の意味とどう環境に対して従事できるかの意味を提供してくれるように思えたんです。でも私は現象が事実、真実を表現していることに対しての危険を感じていました。 そこには現象学的であると判断して社会的文脈から遠くなって行く傾向です。そして、もっと壮大な現象学の発想でした。 もちろんそのことから私の作品への発想をもらっているのですが。 私にとって一番素晴らしい現象学の潜在能力は、主観性がいつも変化する影響を受けやすいということだと思います。 私の作品たちは批評的に鑑賞者を環境に干渉したりもう一度評価する手段と立ち返ることができるとよく考えています。 そして、もっと環境が原因の関係性になる方法を覆うことができます。 でも一方で初期の頃は現象学を私たちの環境をつくっているものだと公式をつくっているような状態でした。 90年代はその環境と干渉しているような道具をつくっていました。 アートワーク、主観性と経験からいろいろな角度で世界を知ることを許すようなアプローチをしていました。 その冒険は好奇心から生まれていました。





RI: 私が現象学に興味をもって始めた時も、同じ問題を持っていました。 60年代、私の絵画たちは絵画自身の消滅を演じていました。 私は抽象的・非具象的とは物質ではないという考えをもっていました。 例えば、純粋な現象です。 しかし、それは本質ではありませんでした。 しばらくの間、同じ推察が絵画の現実性から私たちの意識は移動していました。 絵画のもつ現実性から現象へ。。 物質の領域へ応用することは、物質とも非具象的ななものをすることではありません。 どのように物質を文脈のなかで読むかっていうことであるべきでした。 一度このことに気がついたら、全ての状態が整頓され理解されているところにいることになります。 おそらくそういう考えは宇宙だとか高みの芸術みたいなものです。 確実に見事な考えですが、これはわたしたちの毎日の世界ではありません。 事実、全ては変動する状態で静止していないのというのが主題であり、その性質による世界のダイナミックさは今であること(real-time perceptionの材料なのです。




OE: 同感です。




RI:




つづく

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